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1.白紙の自由……act.3

「千紘、ちーひーろー?」
ベットから上半身だけ起き上がった光佑は、隣で気持ち良さそうな寝顔を浮かべる千紘を揺すった。
わずかに眉を寄せるが、いっこうに起きる気配はない。
しっかり遮光してくれるブラインドのおかげで部屋は薄暗いが、時計は既に十時を過ぎ、光佑はどうしようかと考え低く唸った。
「千紘、いい加減起きろよ。大学行けないだろ」
「……んぅ……」
とりあえず着替えながら千紘を起こそうと声をかけるのだが、返ってくるのは可愛い寝息ばかりだ。
しかし、それも仕方ない。
泣きじゃくる千紘が光佑の腕の中で散々甘やかされて、ようやく泣き止んで眠ったのは日付が変わってからだ。
千紘を拾ってから今日で四日目になるが、その短い間に、千紘がどれだけ独りと闇を恐がっているかを思い知らされた光佑だ。
夜は一緒にいてやらないと眠らず、眠っても、光佑がどこかに行くと昨晩のように混乱して大泣きしたり暴れたりする。
ほとんど常に、不安を抱えている。
しかし、その代わりに熟睡してしまうと眠りから覚めるのは苦手なようだ。
「千紘! 頼むから起きてくれ。今日の講義は出席しないとマズイんだ」
「……うぅー……」
千紘は小さく呻きながらのろのろと上体を起き上げ、子供のように眠気眼をゴシゴシ擦る。
その動作に苦笑して、光佑はまだ意識の覚醒しきっていない千紘を覗き込んだ。
「ようやくお目覚めか? お姫様」
千紘はコクンと頷いたが、ぼんやりした頭がうつらうつら揺れていて、実際のところは定かでない。
「俺、今日は大学行くから」
「……大学?」
「ああ、大学生だって言っただろ。今日の午後の講義は出ておかないと、後で色々うるさいんだ」
眠そうに目をこする千紘に光佑は優しく笑ってその頭を撫でる。
基本的に甘やかされるのが好きらしい千紘は気持ち良さそうに目を閉じた。
「良い子にしてられるか? 外に出なければ、何しててもいいから」
「…………うん。本、読んでる」
わずかに不満そうな色を見せる瞳で見上げられ、光佑は苦笑した。
「昼頃に一人呼んでおいたから、そいつが昼飯作ってくれるからな。朝飯はテーブルに置いてある。あ、何しててもいいけど、危ない事はするなよ」
千紘が頷いた事を確認して、光佑はもう一度頭を撫で、部屋を出た。
千紘ものろのろとした動きで光佑を追って玄関まで見送る。
「んじゃ、行って来るな。六時ごろには帰ってこれると思うから。電話は留守電にしてあるから出なくていいよ」
千紘が悲しそうに眉を下げると、光佑は安心させるように千紘の頭を撫で、その唇に口付ける。
たとえ唇に口付けようと、千紘にとっては額や頬とあまり変わらないようで、どれも『甘やかされている』内に入るらしい。
千紘の頭を名残惜しそうに撫でてから、光佑は玄関を出た。
千紘が拾われて以来、千紘はもちろん光佑も外に出なかったため、千紘はその一線の向こうが別世界のように思えてしまう。
自分がその線を越える事など考えられないほどだ。
千紘はリビングに戻ると、ラップのかけられた朝食を覗き込み、視線を伏せた。
誰もいない静けさもまだ慣れないこの広さも、頼れる存在がいなくなった千紘には恐怖の対象になる。
せっかく光佑が作ってくれた朝食のパンケーキも食べる気がしなくて、千紘はソファで身体を小さく屈め、昨日光佑に与えられた重厚な装丁の童話を開いた。


本を読みながらいつの間にか眠ってしまった千紘は、ぼんやりした頭でキッチンから聞こえる物音を聞いた。
しっかり本を抱き締めていた千紘の身体にはタオルケットが掛けられていて、千紘はぼんやりと首を傾げる。
そうしてぼんやりしていると、不意に頭上から男が覗き込んできた。
「目、覚めた? そろそろお昼ごはん出来るけど、食べられそう?」
光佑の甘やかす声とは違う、人の良さそうな声に問いかけられて、けれど見知らぬその男に千紘はビクッと身を硬くした。
そんな千紘の様子に気付いてか、男は苦笑した。
「ああ、ごめんね。そんなに恐がらなくていいよ。僕は光佑君に君のお世話を頼まれただけだから」
「……世話?」
きょとんとした千紘は、そういえば光佑が出かける前にそんな事を言っていたのを思いだした。
あっさりと千紘の警戒が解けた事に、また男は苦笑する。
「うーん……。わかってくれたのはうれしいけど、その警戒心の薄さはいただけないね。まぁ、このマンションから一切出ないなら問題ないかな」
男はほとんど独り言のように呟きながら、千紘を覗き込むのを止め、千紘は本を抱き締めたまま、のろのろと上体を起こした。
「僕は志賀蔵 志気(しがくら しき)っていうんだけど、光佑君から世話係の話は聞いてるよね。実際には緒奥(しょおく)ってオニーサンが面倒見てくれるんだけど、それはまた次からね」
「しが……くら……?」
「志気でいいよ。あ、なんなら気安く『しーさん』でも『しーちゃん』でも」
志気と名乗る男は人懐っこくにっこり笑った。
光佑よりも背が高く、おそらく年上に見える志気だが、その人懐っこい笑顔は子供のように無邪気に映る。
つられるように千紘も頬を緩めると、志気は一瞬きょとんと首を傾げ、何か思いついたように手を打った。
「千紘ちゃんも仔犬タイプだねぇ。まぁ、最近はご主人サマも板についてきたから、ちょうどいいかもね」
「?」
会話なのか独り言なのかわからない志気の言葉に千紘が首を傾げると、志気は楽しそうにクスクスと笑った。
「そういえば、朝ごはん食べてなかったけど食欲無いの? それとも嫌いだった?」
思い出したようにそう言った志気の言葉に、千紘はハッとして、光佑が作っていった朝食を食べていなかった事に気がついた。
食の細い千紘のために、光佑は極力千紘の好きな物を作ってくれる。
なのに、それすら食べなかった。
「大丈夫だよ。光佑君はそんな事で怒るような子じゃないから、ね?」
俯いてしまった千紘を励ますように、志気は千紘の頭を撫でた。
「とりあえず適当に作ったから、お昼にしようか」
にこーっと笑うと、半ば強引に千紘を椅子に座らせた。
志気はまだ若そうだが、随分と子供の扱いに慣れている。
「好きなモノとか嫌いなモノは言ってね、緒奥クンにも教えてやんなきゃいけないから」
そう言う志気がテーブルに並べたのは明らかに一人分より少ない量で、志気は食べる様子がない。
「あの……食べないんですか」
「ん? あー……僕はね、さっきお仕事で試食会があってお昼ごはん済ませてきちゃったんだよ。ホントは満腹まで食べちゃいけなかったんだけどね。食いしん坊なもんだから」
困ったねー、と大して困った様子も無く言う。
志気が食べない事は分かったが、たとえ人がいても千紘は一人で食事するのは気が進まない。
一気に食欲の萎えた千紘に気付いたのか、志気は千紘から箸を奪った。
「しょうがない、おにーさんが食べさせてあげましょう。千紘ちゃん、あーん」
口の前に差し出されてしまうと食べないわけにはいかなくて、千紘は決心して差し出されたご飯を口に入れた。
「はい、二十回、よく噛んでから飲み込もうねー」
まるで幼稚園児にするような扱いで、けれど千紘は千紘で素直にそれに従っている。
千紘がしっかり二十回噛んでコクンと飲み込んだのを確認すると、次は丁寧にほぐされた焼き魚の身を差し出す。
そんな事を繰り返してようやく食べ終わると、志気は千紘の頭を撫でて褒めた。
「はい、よく食べましたねー。光佑君と同じタイプで助かったよ」
「…………同じ?」
「こっちの話こっちの話。気にしなくていいよ」
不思議がる千紘に、志気はにこーっと笑顔で誤魔化す。
志気の作為的とも言える無邪気な笑顔のおかげで、千紘の要領を得ない疑問は増す一方だ。
志気が食べ終わった食器を片していると、不意にピピピピッという電子音が流れ、志気は面倒くさそうに携帯電話を取り出した。
「はいはい、ただいま休憩中のためお仕事はイヤです」
早口に捲くし立てたが相手には受け入れられなかったらしく、次には不満の声を漏らす。
「出かける? じゃあ客なんか呼ぶなってば……んな事は前田ちゃんに頼んでくれよ。……うー……でも僕光佑君に頼まれ事してるし…………あ、いえ、なんでもないデス。すぐ行く」
あっさりと根負けしてしまったようで、志気は面倒そうに息を吐き出した。
「ごめんねぇ千紘ちゃん、僕これからお仕事行かなくちゃいけなくなったんだ。光佑君が帰ってくるまで、一人でお留守番出来る?」
困ったように笑って謝る志気に、千紘は頷いた。
もう午後二時を回っていて、光佑が帰ってくるまで四時間ばかりだ。
これくらいなら、本を読むか寝ていればすぐに光佑は帰ってくるだろうと、千紘は安易に考えた。
「じゃ、ホントにごめんね」
志気は何度も謝って、千紘の頭を撫でて出ていった。
千紘は少しの間ぼーっとしていたが、はたと気付いてソファに座り、重厚な装丁の本を開いた。
立派な装丁の割りに内容は子供向けで、千紘には丁度いい。
しかし、千紘と生活を始めて一度も外出していない光佑が買ってくる事は出来ないので、これは元々家の中にあった本という事になる。
光佑が読んでいたモノなのか、疑問のある本だ。
千紘は始めの三十分こそ集中して読み進めていたが、一度時計に目をやってからは、その集中力も切れてしまったようだ。
(まだ帰ってこないかな。後どれくらいかな)
そう考えるととても時間が長く感じる。
四時間なんてあっという間だと思っていた千紘には、時計の長針がいつもの数倍遅く感じられた。
本を読む事に集中しようとするのだが、考えは光佑の方に向いてしまう。
光佑はいつも優しいけれど、そうして優しくされる理由も住まわせてくれる理由も、千紘には思いつかない。
ただ今は幸せで、この幸せがずっと続くような気がした。
独りぼっちは嫌だけれど、この部屋にいられる事自体、以前の生活に比べれば何倍もマシだった。
千紘が物思いにふけっていると、不意に電話が鳴った。
出るなと言われているが、やはり気になってしまうもので、じっと電話を見つめた。
三回のコールですぐに留守番電話に切り替わり、男声が聞こえた。
『光佑様、閂建設の社長令嬢が今夜食事をしたいとご希望ですがどういたしますか? 奏騎様は出席するように、とのことです』
ブツッと電話が切れた。
今の電話だと、光佑は今夜は出掛けるらしい。
今いないだけでも心細いのに、夜、たった一人で過ごせと言われたら、いったいどれ程恐いだろうか。
なんだか、もうずっと光佑が帰ってこないような気がして、千紘は恐くてソファーのクッションに顔を埋めた。
自分でも判別できない程いろんなモノが浮かんできて、怖くて涙が止まらなかった。


六時過ぎ、予告通り帰宅した光佑は薄暗い部屋の中に首を傾げた。
既に外は日が消えかかっていて、明かりをつけないといけない時間だ。
リビングに入って明かりをつけると、ソファで身を小さくして眠っている千紘を発見した。
一瞬苦笑した光佑だが、その目元に涙の痕を見つけて顔をしかめた。
光佑は千紘を起こさないように瞼にキスをし、頬に滑らせ、一瞬考えた後、柔らかい唇に口付けた。
薄く開かれた唇に舌を這わせ、もう一度口付けて名残惜しそうに顔を離した。
点滅する留守番電話のボタンを押し、用件を聞くと受話器を取って短縮ダイヤルを押す。
数回のコールの後、留守番電話に残っていたのと同じ声が応答した。
「俺だ」
短く相手に伝える光佑の声は、千紘に向ける優しいものではなく、どこか冷たいものだった。
『光佑様、お帰りなさいませ』
「挨拶はいい。今夜の食事についてだ。奏騎(そうき)に代われ」
『かしこまりました』
少しの沈黙の後、別の声が呆れた様な声で言う。
『断れませんよ。昼過ぎから応接室で待ってるんですから』
「は? 閂の令嬢が?」
『そうですよ。私は外出予定があったので志気に任せたんですが、あの馬鹿には追い返せなかったようです』
「じゃあ、奏騎の責任だろ。断ってくれよ。な、頼む」
光佑が甘えるように言うと、向こうも多少の責任を感じているのか、一瞬言葉に詰まった。
『…………だ、ダメです。毎回断る私の身にもなって下さい』
光佑としても、彼の身になれば承諾するのも止む得ないのだが、今日ばかりは、千紘が心配だ。
まだ寝息を立てる千紘に視線をやって、光佑は語調を強めた。
「どうとでも言って追い返せよ。娘の一言くらいでウチと手ぇ切るようヤツなら、代えを探せばいい。仕事探してる会社なんて、今の時勢いくらでもあるだろうが」
一気に捲くし立てて言うと、受話器越しに盛大な嘆息が漏れる。
『……わかりましたよ。先方にはそう脅迫しておきます』
「さすが。期待してるよ」
『おだてて何か出して欲しければ、明日はスケジュールいっぱいなのでサボらないでくださいよ』
スケジュールが詰まっている事を知りつついくらかサボろうとしていた光佑にあらかじめ釘を刺して、光佑が情けなく返事をすると電話を切った。
相変わらず余念のない男に苦笑して、それでも我侭が通った事を感謝する。
ふと千紘に視線をやると、電話の声で起きたのか、クッションを抱き締めながらもぞもぞと起き上がった。
「悪い、起こしたか?」
「んぅ…………おかえりなさい……」
千紘は子供っぽい動作で目を擦る。
光佑が隣に座るとそれに寄りかかり、クッションを手放して代わりとばかりに光佑のシャツを握った。
「ただいま。どうした、ずっと寝てたのか?」
よく見なくても千紘は寝巻きのシャツのままで、本人すらも光佑に指摘されて初めて気付いたという様子だ。
少し恥ずかしそうにする千紘に光佑は頬を緩め、ぎゅっと抱き寄せた。
「志気の馬鹿がなんかしたのか? それとも、やっぱ一人で留守番するのは淋しいか?」
柔らかい髪に指を差し込み、安心させるように頭を撫でた。
無条件に与えられる光佑の優しさが温かくて、千紘は眠ってしまう前に考えた不安な事すべてにフタをするように、光佑の腕の中で瞼を閉じた。
光佑は千紘が不安になるたびに、いつもそれを忘れさせるように甘やかしてくる。
いつもノロノロとものを考えてしまう千紘は、その優しさに甘んじてしまって、あとでまた悩む事になる。
不安な気持ちが解消される事はなくて、むしろ光佑がそれを消す事を阻んでいるような感さえある。
光佑は千紘の頭に顎を乗せて、考えるように小さく唸った。
「……困ったな。俺、明日は仕事で夜遅くまで帰って来れないんだけど」
千紘に向けられた言葉なのか独り言なのか、曖昧な口調で言う光佑を千紘は見上げた。
見上げた千紘と額を合わせた光佑は、なおも真剣に悩んでいる。
「うーん…………志気も会議だし、緒奥は……雑用で忙しいか」
どぉするかなぁ、と本気で頭を捻っている光佑を見るのは千紘にとって初めてだった。
普段、あらかじめ用意されていたかのごとく何でもこなしてしまう光佑は、いつも余裕そうな態度で、この四日間の生活の中でおよそ欠点というものが見つからなかった。
「…………また出かけるの……?」
「ああ。明日はいろいろ仕事のスケジュールが詰まってるし、釘も刺されちまったしなぁ」
そう言いながらコメカミのあたりを指で円を書くようにほぐす。
すると妙案でも浮かんだのか、おかしいのか困ったのかよくわからない表情をした。
「我ながら名案だけど妙案だなぁ。まぁ、これしかないか」
「?」
千紘がきょとんと首を傾げると、光佑は優しく笑って千紘の額に唇を落とす。
「明日は忙しい連中が多いんだ。俺も忙しくなるけど……できるだけ淋しくないようにさせるから、我慢してくれ。な?」
「うん」
千紘が頷くと、ご褒美のように頭を撫でられる。
嬉しくて目を閉じた千紘には、光佑が顔をしかめたのを見る事は出来なかった。


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