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1.白紙の自由……act.2

『全速力で走れよ。後ろ向いてる余裕があったら、少しでも人がいるところに行くんだ』
『うん』
いつも優しく髪を撫でてくれる手に促されて、走り出す。
最後に見た彼は、いつものように優しく笑っていた――。


遠くで聞こえる物音に千紘は目を覚ました。
けれど瞼を開ける事が億劫でもう一度眠ろうとすると、不意に開いたドアの音に、重い瞼を上げざるを得なかった。
薄く開いた視界はぼんやりとしていて、見慣れぬ天井が、見慣れぬ高さにある。
不思議に思っていると、光佑がその視界を遮った。
「おはよ」
寝起きでぼんやりとしている千紘に苦笑して、光佑は優しく千紘の髪を撫でた。
その大きな手が気持ち良くて瞼を閉じると、千紘自身、起きているのか寝ているのか、区別がつかない。
光佑は千紘が眠ったと判断して携帯電話をとった。
「坂部、俺だ。今日休む。……いや、私用だ。午後の講義、あー……野沢だっけ? 仕事だっつっとけよ」
相手の了解も待たずに通話を切ると、光佑は完全に寝息を立て始めた千紘に目を遣り、苦笑して溜め息をこぼした。
さすがに、昨日の暴れっぷりでは家に一人で置いておくのは無謀だ。
まだ昨夜千紘が暴れたままになっている寝室には、雑誌や書類が足の踏み場に困るほど散乱している。
光佑は部屋を見回して引きつった笑いを浮かべ、仕方無さそうに、荒れまくった部屋を片し始めた。

昼近くなり、ようやく部屋を片し終えた光佑は、大きく伸びをしてから、まだ熟睡している千紘の寝顔を覗き込んだ。
その安心しきっている寝顔をしばらく眺め、興味から、指で柔らかそうな頬を撫でた。
ほとんど無自覚に動く指が千紘の柔らかい唇に触れ、その感触が光佑の衝動を動かす。
唇に口付けても千紘が起きないことを確認すると、その隙間に舌を潜り込ませた。
口腔を貪っても、千紘は時折小さな声を漏らす以外、起きる気配が無い。
さらに深く口付けると、ようやく千紘が眉間を苦しそうに歪めた。
「ふ…………ふぁ……んっ…んんっ…」
上手く呼吸が出来ず喘ぐ千紘を解放すると、光佑は苦しそうに荒く息をつく千紘を悪戯っぽい笑みで見下ろした。
「おはよ。っても、もう昼だけど」
自分が何をされたのか、イマイチ掴んでいない千紘は、間近で覗き込んでくる光佑を見て視線を彷徨わせた。
「あ、あの……?」
「服は洗って乾かしておいたから、それに着替える事。了解?」
千紘がコクコクと頷くと、光佑はにっと笑って寝室を出て行った。
部屋を出た光佑は、壁に、ゴツッという音をたてて頭を打った。
「いかんいかん。もう少しで犯罪者だ……」
あそこで千紘が起きなかったら、結構危なかった気がする。
気を取り直すように緩く頭を振って、受話器をとった。
「あ、光佑ですが……お願いします」
出たのは女性の声で、向こうは光佑の名を聞いて嬉しそうな声を出したが、光佑はどこか不機嫌そうに眉間を寄せた。
三十秒足らずで低い男声が応答をよこした。
『私だ。珍しいな、お前からかけてくるとは』
「俺が好き好んでお前なんかに電話するか」
『だろうな。急用か』
「そのくらいは察しろ。拾い物をしたから、そいつを診てくれりゃいい」
『お前は……またいつもの拾い癖か』
「なんとでも言え。さっさと来いよ」
それだけ言うと、光佑は一方的に電話を切り、疲れたと言わんばかりに盛大に溜め息をついた。
そこへ、タイミング良く寝室から千紘が出てきた。
随分と着古されたサイズの合わないTシャツとハーフパンツ。
本当は別のものを着せてやりたかったのだが、光佑の物では余計にサイズが大きい。
「着替えたな。飯にしようか」
寝室のドアの前で呆然と立っている千紘に手招きをすると、千紘はコクコクと頷いて促されるままテーブルについた。
既にテーブルには昼食が並べられているが、ご飯と味噌汁に焼き魚。朝食メニューである。
「あとで医者が来るから、そん時にでも痛いところは言えよ」
「……医者? なんで」
不思議そうに首を傾げる千紘に、光佑はさして重要そうでもなく答える。
「昨日見た限りで傷が多かったから。それに、虐待なんてされてたら大変だろ」
「き、傷……?」
目を見開いた千紘は引きつったような声を上げた。
その声に一瞥をくれて、光佑は同じ調子で続けた。
「見りゃわかる。ああ、気にすんなよ。俺は仕事上その手の事には慣れてるから」
どんな仕事なんだと言うのは置いておく事にしても、千紘の思考は上手く働かないらしい。
「そういえばお前追っかけまわされてたな。行く当てはあんのか」
千紘は一瞬考え、ふるふると頭を横に振った。
「ならウチに居てもいいぞ」
光佑は事も無げに、やはり重要そうでもなくそう言った。
数秒間を開けて、千紘は首を傾げる。
「い……いいんですか……?」
「だから、そう言ってるんだよ。遠慮すんな。俺お前の事気に入ってるし」
そう言ってにっと笑う光佑に、千紘は視線を彷徨わせ、何度も小さく首を傾げた。
冗談なのか本気なのか、光佑の目からはそれすら掴めない。
なぜか都合のいい方に解釈したくなって、千紘は頷いた。
「は……はあ。じゃぁ……よろしくお願いします」
千紘は恥ずかしそうに頬を染めて、小さく頭を下げた。
一瞬きょとんとした光佑は軽く吹き出して、おかしそうに、千紘の頭をクシャクシャと撫で回した。


「拾い物と言うから、犬か猫かと思って来たら」
昼食の後、タイミング良く訪れた医師は、千紘を見下ろして軽く目を見張っていた。
「犬とも猫とも言ってねぇぞ、俺は」
「普通人間拾うか?」
「俺は拾った」
呆れ果てたように額を押さえる男に、光佑は事も無げに言った。
「子供だぞ?」
「だからなんだ」
「お前には今更かもしれんが、犯罪者にはなるなよ……」
「……るせぇな。お前は仕事をすりゃいいんだ」
言われるまでもなく、さっき犯罪者になりかけている。
決まり悪そうに光佑が睨むと、男はやれやれと肩を竦めた。
横で二人のやり取りを見ていた千紘だが、話の内容が理解できず、光佑の袖を引っ張った。
すぐにその意図を理解して、光佑は男を指差して説明した。
「ん? ああ、コイツは佐藤正彦っつって、一応腕の立つ医者だ」
「人を指差すんじゃない。一応も余計だ」
「一応でも褒めてやってんだ、感謝しろ」
「…………」
一々指摘するのも疲れたのか、佐藤はさっさと診察の準備を始めた。
佐藤が開いた鞄の中には様々な道具が入っていたが、千紘は運悪くその中に注射器を見つけてしまった。
千紘の中で、医者といえばあまり良いイメージが無い。
むしろ、悪魔の尻尾が生えていてもおかしくない。
そこに、注射器だ。
思いっきり不安になった千紘は、ぐいっと光佑の腕を引っ張った。
「ん?」
「な、なにするの……?」
声が震えてしまい、光佑は怪訝そうに眉間をしかめた。
「怪我してるところを見てもらうだけだ。こら正彦、恐がってんじゃねぇか」
「……安心しろ、恐いだの嫌いだのはお前に言われて慣れてる」
光佑が言いたいのはそう言う事ではないのだが、佐藤は溜め息混じりにそう言うと、光佑に引っ付いていた千紘を剥がしてソファに座らせ、千紘のTシャツを捲り上げた。
「ヘンタイ」
「お前がな」
千紘の体を見てわずかに視線を泳がせた光佑が苦し紛れに呟いたが、佐藤はまったく意に介さない。
光佑の言葉も女の子の身体も意に介さない佐藤だが、千紘の身体に、わずかに目を眇めた。
主に腹に、痣やミミズ腫れがいくつもある。
千紘は傷を見られるのがイヤでシャツを降ろそうとするが、その手を光佑に捕まえられる。
「おとなしくしてろ。ただ治療するだけだから」
ついでに頭も撫でられて、千紘は抵抗できず俯いた。
昨日会ったばかりなのに、不思議と光佑には逆らえない。
ほとんど塗り薬を塗るだけの治療はすぐに終わり、ようやく解放された千紘はほっとした。
「まぁ、酷いものもあるが、一週間もあれば大体消えるだろう。それから食事はしっかりとりなさい。薬は置いていくから、自分で塗る事」
「なんで『自分で』を強調すんだよ。俺はそこまで危険人物か」
片付けをしている佐藤を睨んで光佑が抗議すると、佐藤は光佑の首根っこを掴んで声を潜めた。
「別に私はかまわんぞ。だが相手は中学生、しかも明らかに虐待を受けている。アレがいい顔するとは言えんだろう」
「…………だから、千紘に手を出すとは誰も言ってないだろ。拾っただけだ」
光佑の言う事を信用していないのか、佐藤は剣呑な眼差しを向けてくる。
「さすがに私も、幼女趣味の"御主人様"は持ちたくない」
「お前なぁ……もういい、とっとと帰れ」
しっしと手を振る光佑に、言われなくとも、と肩を竦めて佐藤は玄関に向かった。
千紘はその背中に、小さい声を投げた。
「あの……ありがとうございました」
「私は医者だ。怪我人を診るのは義務だからな」
佐藤が帰るのを見送って、光佑は盛大に空気を吐き出した。
ある意味、小さな嵐が去ったような心境だった。


「千紘、お前学校は?」
「えと……施設院の学校……」
伏し目がちに答える千紘に光佑は首を傾げる。
「施設院? 孤児院の事か?」
千紘は首を横に振る。
「……私……普通の子より遅れてるから……」
「ああ、障害者用の学校か。…………? なんで追いかけられてたんだよ」
一瞬納得しかけた光佑だが、すぐに昨夜の事を思い出して首を傾げた。
大体、普通に生活していれば黒尽くめのアヤしい男達に追いかけられる事などないはずだ。
もっとも、『普通に生活』を一般的な基準で言えば、光佑も該当しない。
「あの……えっと……」
視線をあちこちに泳がせて言葉を探すが、焦っているせいか、まったく言葉が浮かんでこない。
光佑はそんな千紘の様子に苦笑して、思考を中断させた。
「悪かった悪かった。そのうち、ちゃんと整理がついてから話してくれりゃいいから」
申し訳無さそうに眉を下げる千紘に、付け加える。
「俺も昔はよく追いかけられたから、気にすんな」
その言葉に千紘はきょとんとして光佑を見上げた。
もちろん、千紘の思考では『普通は追いかけられない』などという一般的意見よりも、一種の仲間意識のようなものが先行したのだが。
「お前の学校は身体の怪我が治ってから考えるとして。俺は一応大学生だし仕事もしてるから、昼間は家に居ない事の方が多いからな」
千紘は不安そうな瞳で光佑を見たが、光佑は優しく微笑んで、千紘の頭を撫でる。
「まぁ、何かあれば世話係でも呼ぶから、心配ないだろ」
「世話係?」
「ああ、知り合いに育児が好きな奴が二人もいるしな。それに……」
光佑はそう言うと、何の前触れも無く千紘を抱き寄せ、腕の中に閉じ込めた。
「ココにいる間は俺が守ってやるし、たっぷり甘やかしてやるから、なんも心配すんなよ」
心地の良い声が耳元でそう囁いて、大きな手が髪に差し込まれる。
驚きと恥ずかしさと心地良さに顔を赤くしながらも、千紘は甘えるように、光佑の胸に顔を埋めた。


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